意識が高い子どもたちの話をきいての雑感

代表の支倉です。
(日付かわってしまったので)昨日、「「未来の主役は誰なのか?」を本気で考える〜時代をリードする10代が語るこれからの未来、大人へのメッセージ」というイベントに参加してきました。(視聴者として、です。)

イベントの趣旨とか内容については、togetter にまとまっているようなので、雑感だけ書いてみます。


彼らは、一言でいえば「すごい」というのが印象。
子どもから見ても大人からみても、それは明らか。
そこに、何か言う人がいるとしたら、それは単にひがみ・ねたみだろう。

メディアは、TOEICで何点とったとか、どんな活動で実績あげたとか、そういう”わかりやすい結果”が好きだ。その”結果”をもっているから、彼らも今日の登壇者として選ばれ、私も、彼らの話を聞く機会が得られた。

でも、彼らの話をきいて改めてわかったこと。
彼らは”結果”(=評価)が欲しくて勉強や活動をしたわけではない。
単純に「自分の今やりたいこと」を貪欲にやっていったら、”結果”がついてきた。
それをねたみ、疑う大人も多いはずだが、これは純粋にそうなのだろうと直接話を聞いて感じた。
子どもであるゆえのピュアさ、と言っていいかもしれない。
これは、いくらネット上のテキストをみてもわからない。リアルで直接聞かないと。


でも、どんなにがんばっても”結果”をだせない人もいる。というか、それが大半だ。
みんなができないことをできたから、周りから評価される”結果”になる。みんなができることをやっても「すごくない」。


ここまで書いて、そもそも、「すごい」とか「すごくない」とか何だろう・・・と考えてみた。

答えは、「相対的にみて飛び出ていること」かな、と思う。

皆と同じだったら「すごい」とは言わない。人と”違う”から「すごい」。
でもそれは、試験の点数とか高いとか、他の人より早く走れるとか、そういう数値で測れることだけではない。AKBが好きで、AKB全員のプロフィールが言えればすごいし、電車が好きで、日本全国の路線や車両を知っているのもすごい。


ただ・・・
どうやら、私も含めて日本人というのは、かなり根本的なところで、”違い”を認めることが苦手なのだとつくづく思う。いわゆる「同調性」というやつ。

誰かが「右だ」といば、みんなが「そうだ」「そうだ」と同調する。
うまく同調できないと輪に入れない。
それが発展すると「いじめ」につながる。
だから「皆とおなじでいる」ことをめざしてしまう。
究極は、「KY(空気読めない)」とかいう言葉が流行り、大人までもが違和感なくそれを使うようになってしまう。すでに死語かもしれないが、これは、ひどかった。。。

もっと、「違い」を認めあえる社会になれば「いじめ」は激減すると思うし、「すごい」子どもも大人も増えてくる気がする。ハンディキャップをもつ人にとっても暮らしやすくなるかもしれない。


大人もそうだが、特に未来を担ういまの子どもたちにきちんと教育すべきことは「違いを認める」ということに尽きるのかもしれない、と思う。
ここ最近、思っていたのだけれど、今日の話をきいて改めて感じた。


なんだか、これ以上思うまま書いていると、エンドレスになりそうなので、ここで強制的にまとめてみる。

  • 彼らはすごい。でも本当にすごいのは、彼らが「すごい」結果をだせるような環境をつくってあげた親御さんや周りの大人の教育なのだと思う。
  • そのような環境をすべての子どもに提供してあげることが大人の、あるいは社会の役割なのだと思う。現実には経済的な面も含めて、いろいろ困難も多いし理想だけでかたづけられないこともある。でも、それくらいの志は、すべての大人が持っていきたい。
  • そして、その環境をつくるための根底にあるのが「違いを認め合える」社会なのではないかと思う。グローバル化する社会で、高度成長期が終わった「日本」が、より”幸せ”な国家になるには、それが絶対に必要だと思う。

そして、いま子どものみんなに言いたいことは
  • 違ってもいいんだよ。考え方も、見た目もなんでも。
  • 周りの大人に迷惑かけてもいい、周りの目なんか気にしなくていい、何でもいいから、やりたいと思ったことを、とことんやってみてほしい。

・・・と、まとめてみたところで、聞きながらとったメモをみなおしてみたら、登壇者のひとり、大学1年生の新居 日南恵さんが最後にまとめていた言葉があったので紹介。
  • 違いこそが魅力だ
  • 日本の未来を担うのは特別な人じゃない
いいこと言う!

子どもたちの話をきいて、日本も、まだまだ捨てたものじゃないな、と刺激をうけたセミナーでした。