ソーシャルビジネスグランプリ2013夏のご案内

告知が遅くなりましたが、当社エレファンキューブは、社会起業大学主催 経済産業省後援のイベント「ソーシャルビジネスグランプリ2013夏」に協賛させていただくこととなりました。

ソーシャルビジネスグランプリ2013夏
http://socialvalue.jp/final/2013summer/index.html

主催の社会起業大学様は、校名のとおり「社会起業家」を育成する社会人ビジネススクールです。
現代の社会において、さまざまな「社会的課題」がある中で、その解決を図るために主体的に活動していこう!という志の高い方が集まって学ばれています。

今回当社が協賛させていただいた「ソーシャルビジネスグランプリ」では、在校生の方だけでなく全国から「ソーシャルビジネス」を募り、事前審査を突破したファイナリスト9名のプレゼンテーションと各賞の発表がされます。

この大会の来場者は年々増加しており、今回は700名予定(過去最大)とのこと。
経済産業省も後援していることからも、関心の高い大会であることがうかがえます。


開催は、来週末 8月4日(日)、場所は虎ノ門の「ニッショーホール」となります。
ご興味ある方は、ぜひ足をお運びください。
※ 当社は、受付付近でブース出しておりますので、気軽にお声かけください。

ブックレビュー「キャリア教育のウソ」

話題になっていた本「キャリア教育のウソ」を読みました。



まず、全体として非常に読みやすく理解しやすい本でした。
小難しくなく一気に読めるので、本を普段読まない人にも、内容的に興味があったらおススメしたい本です。

そんなことやっているんだ!という驚き

中学生のほぼ100%が「職業体験」したり、具体的なキャリアプラン立てさせたりしているとか、ぜんぜん知りませんでした。
主に大学での就職活動がらみの事情やそこで言われている「キャリア教育」は、多少見聞きする機会もあったのですが、義務教育のうちからそんなに進んでいるとは、お恥ずかしい話知りませんでした。

筆者の意見に全面的に賛同

筆者の書いていることには、全面的に賛同でき、納得感を持ちながら読むことができました。「やりたいこと至上主義」「正社員信仰」などへの疑念も納得です。

この本の位置づけは「問題提起」まで

実はこの本を読んだのは1週間ほど前でした。読み終えて、納得感はあるものの何かすっきりしない部分があり、すぐにレビューが書けませんでした。それは、この本の位置づけが「問題提起」までで終わっていること。
筆者はあえて(?)、「解決策の提示」ではなく「問題提起」をしているのだと思うので、この本として内容不十分ということではありません。まちがいなく「良書」です。ただ、「では筆者として、具体的にどうしたら良くなると思うのか」を聞きたいな、というのが読み終えた直後の正直な感想でした。ぜひ続刊でそこら辺を書いていただきたいものです。

けっきょく、“今の”キャリア教育の意味はないのか?

この本の刺激的なタイトルや、各種レビューを表面上だけみていると「なんだ、今までのキャリア教育って意味なかったのか。ダメじゃん。」と短絡的に感じてしまう人が多くなりそうな懸念があります。

ただ、そこは私としては、反論してみたいと思います。
熱心な「キャリア教育」を受けずにオトナになった自分の意見として。

中学生がキャリアプランを書くことは、意味がないのか?

確かに私も中学生のときに、書けと言われても、なんとなく周りを見て正解っぽいことを適当に書いていたと思います。ほとんどの生徒が、まじめに真剣に考えることはないでしょう。むしろ中学生の多感な時期であれば、「クラスで浮かないための“無難な”模範解答を書く」のが大多数でしょう。
ただそれでも、真剣ではなくても、あえて嘘を書いていたとしても「1回キャリアプランを考える真似事をしてみた」ことは後に大きく意味をもってくると思います。

私は、学生時代はキャリアプランなど一度も考えたこともなく社会人になりました。
はじめて考えるキッカケがあったのは、ある出版社様からいただいた「お金」に関するデジタル教材の制作をしているときでした。そのときは「お金」の観点からですが、キャリアプランをたて、そこでかかるお金を計算するようなシミュレーションを作成しました。
そこではじめて気づきました。「ちゃんと考えていかないといけないぞ」ということに。

学生のとき学ぶことなんて、ぶっちゃけていうと、そこで「必要か必要じゃないか」なんてことは分かりません。言われたからやっているだけです。でもオトナになって、どこかのタイミングで「あ、これ役にたってるかも」と思うことが、膨大に学んだ中の一角にでてくるものだと思います。
そういう意味で「一度やってみたことがある」ことに、教育的な意味はあるものだと思います。

正社員信仰は悪なのか?

著者は、「どんなに頑張っても、正社員になれない人が一定割合いる」だから「正社員になることだけでなく、なれなかったときの対策も」と訴えています。これは完全に同意します。

ただその上で「正社員信仰」を否定しなくてもよいのでは、と思います。

現在の社会構造においては、非正規雇用がなくなることはありません。非正規雇用がダメとか格下だということはありません。むしろ、現在の社会構造の中で無くてはならない必要な存在です。
ただ一方で、「個人」のキャリア形成を考えた時に、ある職に就き、その職の技能や経験を高めたいと思ったならば、迷わず「非正規雇用」ではなく「正規雇用」を目指すべきです。
それは、正規雇用と非正規雇用を比べたら、そこで得られる経験は雲泥の差だからです。

世の中にはいろいろ自分に都合の良いことをいう人もいますが・・・
私は、雇う側の人間として100%断言できます。
おなじ職で正規雇用と非正規雇用があるなら、迷わず正規雇用を選ぶべきです。すがって固執してもよいレベルです。

それでも、正規雇用にありつけなかったら・・・
それは、この弱肉強食の社会の中で、その時点で「負け組(=弱者)」になってしまったことを認めるべきです。「負け組(=弱者)」になってしまった。そしたら、そこからどう這い上がって「勝ち組(=強者)」になるかを考えるべきです。なぜ負けてしまったのか?どうしたら勝てるのかを考えてまた立ち向かうのです。そこで「しょうがないよね」と思っていたら、厳しいですが、一生負け組です。社会構造の問題でも経済の問題でも何でもありません。自分自身の問題です。

ただ、働き方・働く意味は多様化しています。
すべての人が「お金を稼ぐ職=自分のキャリアプランの中心」というわけではありません。非正規雇用という形で働くことで、他のやりたいことに時間を使える、非正規雇用という形態があるから働ける、という人もたくさんいます。そういう人は、非正規雇用を積極的に選択すればよいのだと思います。

多様化するキャリア形態・激動する社会の中でどう生きるのか

反論っぽいことを書きましたが、おそらく私の考えは筆者とおなじだと認識してます(違ったらすみません)。短絡的に言葉尻だけをみて「反対極論」を考える人も多そうだな、と思い、あえて反論っぽくかいてみました。

結局のところ、キャリア形態は多様化しています。
同時に、社会も日々変化し、グローバル化し、弱肉強食の様相はますます強くなります。

他人より名の知れた会社に入ること・年収が多いことだけが「勝ち組」ではありません。
だた、個々人の価値観において「自分は人生勝ち組だぜ」と言えるよう、厳しい競争社会の中で生き抜いていくことが必要です。

成功する人・失敗する人、楽しそうな人・つまらなそうな人、いろんなオトナのいろんな「生き方」を自分の目でみて・自分で感じて、多様な選択肢がある中で、どう生きていきたいか?を考えていけばいいのだと思います。

いつ「やりたいこと」「自分なりの生き方」を見つけられるか分かりません。
私と同じ30代になって、まだ方向性を見つけられていない人も多く居ます。
学生のうちに本当に見つけられるのは少数派かもしれません。
でも、早くに見つけられるなら、それに越したことはありません。

それを考えるきっかけを学生のうちに得られる「キャリア教育」というのは、意味があると思うのです。一握りかもしれませんが、そこで自分の人生の方向性も見つける子もいるでしょう。

筆者が提言しているとおり、きっと今の形がベストではなくデメリットも含んでいるのだと思いますが、私見としては、やらないより、やるメリットの方が大きいだろうと思います。
単純に、そのようなチャンスが与えられた若い人はうらやましいです。


というところで、長文になりましたが、このへんで。

「デジタル+教育」が必要なのは?

障害児教育にタブレットPC…滋賀
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=81045

このニュースを読んでの雑感。

「デジタル+教育」の恩恵をもっとも受けられるのは誰なのか?

ビジネス的に大きく儲からないかもしれないけれど
「デジタルだったから勉強できた!」
「デジタルだから分かった!」
そんな声があがるところに「デジタル+教育」を届けることに大きな意義があるように思う。

デジタルじゃなくても勉強できる環境がある人は、別に新しいデバイスを使わなくてもいいのだから。

正しい?情報を収集し判断するような教材

こんな教材をつくりたいな、という話。


情報が多すぎる

インターネットというメディアがでてきて、従来のメディア(雑誌・新聞・テレビなど)がもっていた制約が解除された。
すなわち、紙メディアであれば「紙面」、放送メディアであれば「時間」という制約がなくなった。
いくらでも情報を載せられるようになった。誰でも発信できるようになった。
結果、情報量が膨大に増えた。

偏った情報網

インターネットで情報を得るきっかけは、ソーシャルメディアからの情報が圧倒的に多くなった。
ソーシャルメディアから入ってくる情報は、ひろく情報が流れ込んでいるように見えて、非常に偏っている。
自分の知り合いが興味のある情報”だけ”が流れてくる。
インターネットによって情報の垣根がなくなって、広く世界中の情報が得られるようになったのか?
ある意味正しい。が、逆に見えなくなったものも多い。

「話題になるネタ」至上主義

厄介なのは、ネットでは「話題になるネタ」が価値をもっていることが多いこと。
それが正しいとか社会的意義があるとか関係ない。みんなが興味をもつことが重要視される。
もちろんエンターテイメント(娯楽)分野は、それでいい。
ただ、インターネットはエンターテイメント(娯楽)とニュース(報道)がごちゃまぜになっている。

情報をどう判断するのか

インターネット普及前から、メディアというのは恣意的である。
都合の良い情報だけを都合のよいように発信する。
ジャーナリズムにもとづき自分の目で見た真実を発信する者がいる一方で、人々を陥れるために偽りの情報を流す者もいる。
それらは、インターネットによって「同列に並べられる情報」になった。

その中で「何が正しいのか真実なのか」は、誰も分からないかもしれない。
そもそも真実を知ることが最善なのかは分からない。
けれど「自分が正しいと判断する」ことは必要だろう。

情報判断のしきいが低すぎないか

最近思うのは、ネットに流れてくる情報を「そのまま鵜呑みにしてないか」ということ。
その情報だけみて「正しい」と判断して大丈夫?
その判断は、善意に見えて、誰かを傷つける結果となっていない?

せめて「もう少しできる限りの情報収集をして判断したら?」と思う。

そういう「情報判断」を学ぶ教材をつくりたい

これを書いてて、このテーマで本気で書いたら新書本1冊くらいかけるんじゃないかと思えてきた。
いや、私が書かなくても、もうありそう。
ただ、私としては「本」という媒体でまとめるのではなく、インタラクティブな教材で、そこで疑似体験をしていくことで「その情報を鵜呑みにしてだいじょうぶ?」という「ギモン」をもてる教材をつくりたい。

推理ゲームのように情報の断片を集めていくのだけど、単に1つのゴールめざすわけではないような。
でも、非日常の推理ゲームではなくて、もっと日常に溶け込んだ中で情報判断をするような。
もしかしたら、twitterとかfacebookとかつかって、それこそリアルタイムに情報が流れながら進行する教材とか面白そう。


以上、土曜の深夜の思い付きをメモしておきます。
いっしょにつくろうよ!という方いたら連絡ください~